教え tell me – vol.6 無碍の一道(むげのいちどう)

早いもので今年も前半が終わり、あっという間に残り半分を切ることになりましたが、皆様には、いかがお過ごしでしょうか?お寺では、上手にハイハイしていた赤ちゃん(住職の娘さん)が、いつの間にやらタタタッと元気に歩き出す様子を目の当たりにし、生まれてきてよかったねとその成長に驚きをかくせません。

大人である私たちにとっては当たり前のように思えることであっても、赤ちゃんにとって、そのすべてが感動 今、生きている喜びをからだ全体で感じ表現していくその姿が、改めて当たり前の大切さを教えてくれている日々であります。

さて、子供のころといえば、私が実家の日曜学校でいつも最初に歌わされていた「仏の子供」という歌を思い出します。歌詞を紹介しますと

我らは仏の子供なり♪ 嬉しいときも 悲しいときも♪ み親の袖に すがりなん♪

あらためて見ますと、大人になった私たちにも大切なことを教えてくれる歌だと分かります。それは、嬉しいときも 悲しいときも の部分です。

私たちは、嬉しいことがあると飛び上がるほどに喜び、悲しいことがあるとドン底に沈んだようになる、浮き沈みのある人生を送っています。

それは、嬉しい楽しいとがある生活を幸せとし、悲しいつらいことがある生活を不幸と決め、今ある生活がよりよい状態になることを望みながら毎日生きているからです。

ところが、現実の生活では私たちの望まない、地震・大雨台風・大雪・交通事故と、想像をはるかに超えたことが起こり、普通では受け止めることができないような場面に出くわすことがあります。

今から800年前に生活しておられた親鸞聖人も、きっと私たちと同じような場面に出くわしたことかと思います。それを受け止め乗り越えられた言葉が、歎異抄という書物の中にある「念仏者は無碍の一道なり」であります。

念仏者とは、今ここにあるありのままの自分の姿を受け入れ、日々を精一杯、生き生きとした気持ちで生活している人であり、またその人こそが、たとえどのような状態にあってもそれを受け止めて生きていくことができる ’無碍’の道を歩ませていただくことかと思います。

親鸞聖人が歩まれた「無碍の一道」に、私たちも日々の暮らしの中で気づかせていただけるよう、共々に感謝のお念仏を称えていきたいものです。

合掌

この記事が掲載されている寺報やすらぎ