特集 浄土真宗のこれから ~御門主様 新門様のご対談・前編~

 この度、築地本願寺親鸞聖人750回大遠忌法要をお迎えするにあたり、「浄土真宗のこれから」という記念冊子が発刊されました。現代における大遠忌法要の歴史的意義の上に、これからの宗門の展望や首都圏開教の抱負などについて、御門主様と新門様からお伺いし、対談形式でまとめた内容となっております。
 せっかくの御門主様と新門様との御対談ですが、残念ながら1ヶ寺1冊だけの配布であり、なんとかご門徒の皆様にお伝えさせていただきたいと思い、こちらに抜粋させていただきました。前編(今号)・後編(次号)と二回に分けてお伝えします。じっくりご高覧下さい。

親鸞聖人750回大遠忌法要をお勤めして

 ――2011年は、浄土真宗を開かれた親鸞聖人の750回大遠忌法要の年でした。この年、京都の本山本願寺では、4月から11月までおよそ100座の法要が勤められ、翌2012年の1月の御正当法要までに、約46万人という多くの方が参詣されました。
 ご門主さまは、ご自身の新門時代を含めると2回目のお勤めであり、新門さまにとっては初めてのお勤めでしたが、このたびの大遠忌法要について何をお感じになられましたでしょうか。

【 門主 】
前回の親鸞聖人700回大遠忌法要が本山で勤められた1961年は、私が中学を卒業した年でした。その半年前に得度式を終えたばかりでしたので、ちゃんと色衣・五条袈裟を着けて出勤することができました。そんな年頃だったので、法要の内容については詳しく記憶しているわけではありませんが、今回の大遠忌に際し、50年前にもご縁があったことをありがたい機会だったと思い出しました。
 今回は門主として、大遠忌法要の意義をかみしめ、精一杯お勤めしようと心がけました。日本各地はもとより海外からも、本当にたくさんの方にご参詣いただき、ご一緒にお勤めできたことが何よりの喜びです。
【 新門 】
私も、たくさんの方にお参りいただく中で、お勤めすることができたことを大変うれしく思っています。これまで本願寺に来られたことのなかった方が、大遠忌をご縁に初めてお参りいただいたり、あるいは法要期間中に何回もお参りしてくださった方もいらっしゃいます。多くの方にそれぞれのご縁を結んでいただいたと思っています。
 全国各地、海外からも浄土真宗のみ教えを依り所とされている方々に一堂に集まっていただき、法要をお勤めすることで、自分一人ではなく、これだけたくさんの方々がみ教えを依り所とされていらっしゃることを、改めて感じることができる機会だったと思います。さらに家族そろってお参りくださった方もたくさんいます。これを機会に次の世代にみ教えが伝わっていくきっかけになればと思います。
 以前は、それぞれの家庭の中で、自然とみ教えが伝わっていく、ということもありましたが、それが難しくなった状況の中で、家族そろって京都へ来て、本山にお参りすることの意味が、50年前の大遠忌法要の時代よりも重要になっているように思います。
【 門主 】
 家庭でのご法義の伝承が難しい今、確かに本山にお参りすることが、大きなご縁となれば喜ばしいことです。そうした意味でも、今回の大遠忌法法要では、新しい法式(注)が制定され、それに従ってお勤めをしました。このたびのご和讃を中心にしたお勤めは画期的だったと思います。私の願いは、門信徒の方にも文字を読めば内容がわかるお勤めができれば、ということでした。宗祖がご和讃を書かれたお心も、そうしたところにあったと考えます。そして本山で共にお勤めしたご縁が広がっていくことを期待したいと思います。
 ただ法要期間中は日程が忙しく、参詣した方々がどう受けとめられているのか、直接そうした表情を見ることができなかったことが心残りです。今回もそうだったと思いますが、本願寺の法要はどうしても僧侶中心で、門信徒が参加できるような場が少ない。そうした意味で、今後の課題としては、もうひと工夫する必要があるのではないかとも感じられました。宗門のこれからに、さらなる期待を込めたいと思います。
 
【 新門 】
そうですね。今後も別院や一般寺院での大遠忌法要や様々な法要があります。日頃から参詣されている方だけでなく、初めて参詣された方にもわかりやすく、意味のある法要でなければなりません。本山での大遠忌法要の法式は一つの参考例になるのではないかと思います。
【 門主 】
そのように捉えてもらえると、大変心強く、たのもしく思います。
 次の800回大遠忌をお勤めすることの叶わぬ身として、このたびの大遠忌によって、お念仏が次代につながる契機に成り得たならば、何よりうれしく思います。
(注)
 親鸞聖人750回大遠忌法要では、浄土真宗のみ教えを多くの人びとと共に讃え仰ぐため、「宗祖讃仰作法」「宗祖讃仰作法 音楽法要」を制定し、お勤めしました。「宗祖讃仰作法」は、親鸞聖人のご和讃(和語によって、み教えを讃えた詩)と中心とした構成となっています。
 ご和讃によって「正信偈」の内容を味わうことができるよう調えられています。また、「宗祖讃仰作法 音楽法要」は、「正信偈」を十二礼の節で勤めた後、ご和讃と念仏を洋楽のふしで唱え、最初と最後に『親鸞聖人御消息』を拝読します。「和讃・念仏」も新たな譜で、唱えやすい旋律で作られています。

東日本大震災から2年を経て

――大遠忌法要の直前に東日本大震災が発生いたしました。それから2年が過ぎましたが、当時は何をお考えでしたでしょうか。

【 門主 】
東日本大震災が発生し、深刻な事態が明らかになっていく中で、宗門内には、大遠忌法要を計画通りお勤めすべきかという議論や、実際にご法要が可能なのかという心配や戸惑いが広がっていきました。
 ただ、大遠忌法要は親鸞聖人のご命日にちなんでご遺徳を偲び、お念仏を恵まれたご縁を深く心に刻む大切な法要ですので、私はどんなに深い悲しみも受けとめて、お勤めせねばならないと思いました。また、被災された方々、被災地にご縁のある方々も、大遠忌法要がきちんとお勤めされることを願ってくださるのではないかとも思っていました。
 当然、お勤めの方法や内容に配慮する必要がありましたが、1ヶ月の余裕があり、4月から予定通りお勤めできて、本当にありがたかったと思います。
 大遠忌法要を通して、一人でも多くの方に、被災された方々へ思いを寄せていただきたいと考えて、法要の際、法話では、震災に触れるお話をするよう心がけました。
【 新門 】
震災発生当初から、東京と京都では震災に対する受けとめ方や影響が随分違うように感じました。それは被災地との距離の違いによるものだと思いました。大遠忌法要にお参りくださる方は、本願寺派寺院の多い地域、つまり東北の被災地とは距離的に遠い地域の方が必然的に多くなります。したがって被災地に思いを寄せて法要をするということに、大きな意味があると思いました。
 法要期間中は、ご参拝の方に義援金・支援金をお願いし、被災地へお届けしました。また、被災された方の中には、困難な状況の中で参拝くださった方もあります。多くの方の思いをいただいての大遠忌法要であると強く感じました。
【 門主 】
 東日本大震災から2年が経ちました。私は震災発生当時から何度か被災地にお見舞いに伺いました。そして仙台などで、その地の被災された方々と共に、追悼法要をお勤めしました。被災地に立って考えることは、まず地震・津波で被災された方々のことです。具体的に被災された方々ををどう支えていくか、という課題が私たちにはあります。地震はいつどこで起こるかわかり
 ません。私たちが生きているこの世は「諸行無常」であり、次の瞬間には何が起こるかわかりません。自然災害は、誰かに責任があるという問題でもありません。地震発生時には、紙一重で亡くなった方と助かったがいる。助かった方々の今をどう支えるか、という問題です
 一方、福島の原発事故は、広い意味で人災だと思います。日本という国の国策の失敗だったと考えています。元々、原子力発電所の根本的課題は放射性廃棄物の最終処理方法が見つかっていないことです。そのまま埋めるしかない。地震に耐えるような発電所を作ることはできても、廃棄物は子孫にとんでもないものを相続させるということでしょう。事故は同時代の私たちが被害を受けるだけですが、廃棄物は子子孫孫の課題となります。
 大遠忌法要を通して、私たちが次代にお念仏のみ教えを伝える責務を担うのと同じように、大震災とこの2年間を通して明らかになってきた課題を、忘れることなく担っていくことも、私たち念仏者の責務であると深く受けとめねばなりません。

写真:東北教区東日本大震災現地追悼法要に出座される両門様

【 新門 】
震災から2年が経ち、被災された方とそうでない方の距離感が広がってしまった、また被災された方に対する差別があるとも報道されています。被災地に関心を持ち続け、被災された方の現状に思いを寄せることが「寄り添う」ということではないでしょうか。その上で、私たちにできることを通して、被災者の方のお手伝いをさせていだたくことが、念仏者の責務ではないでしょうか。



50年に一度のご縁

――大遠忌法要を機縁として様々な催しが行われました。50年に一度のこうしたご縁についてはどうお感じになっておられますか。

【 新門 】
本山だけでなく、全国各地で大遠忌を機縁とする催しが行われました。例えば、法宝物を広く一般に公開する「本願寺展」を全国7都市で開催しました。こうした催しを通して、これまで本願寺にご縁のなかった方々へも、例えば親鸞聖人の直筆の書物を見ていただくなど、浄土真宗を知っていただく機会となったのではないか、と考えています。
【 門主 】
 宗祖の大遠忌法要は50年に一度ですが、根本的な趣旨は毎年の報恩講法要とあまり変わりません。宗祖のお徳、ご苦労を偲ぶ、それが私の人生にとってどんな意味があるのか、教えの要は何か、宗祖が説かれた大事な点は何か、改めて一人ひとりが味わう御恩報謝の法要です。
 あえて50年に一度、大掛かりな法要を営む意味は、宗祖から伝わってきた「伝灯」、つまり文字として書物にあるものだけではなく、生きた人間がお念仏を申して代々伝えてきた「伝灯」をもう一度かみしめる、というところにあると思います。
 み教えを伝えてくださった宗祖以後の無数の方々の功績を味わうということです。振り返るきっかけとして50年はよい区切りだと思います。そのご縁を通して、50年前はどうだったのだろうかと考えることができましたし、100年前はどうだったのだろうなどと考えを深めることができます。
 「伝灯」とは、50年前、おじいさんあばあさんと一緒にお参りしたとか、そうした思い出と共に伝わってきたものがあるということでしょう。

写真:大遠忌記念「本願寺展-世界遺産の歴史と至宝-」(金沢展)を観覧される新門様、新裏方様

【 新門 】
各地の別院や一般寺院の大遠忌法要を勤めさせていただく機会があります。特に稚児行列をされた場合、三世代そろってお参りくださる方が多くあります。代々み教えが相続されてきたことを実感します。親鸞聖人は『教行信証』に「前に生れんものは後を導き、後に生れんひとは前を訪へ、連続無窮にして、願はくは休止せざらしめんと欲す」という道綽禅師のお言葉を引用されています。過去のことは現代では通用しないと考える方もありますが、いのちは連続性を持ってつながっています。み教えも同じように受け継がれていきます。そのことを私たちが共有するのに、50年ごとのご法要は、大切なご縁なのではないでしょうか。
【 門主 】
そうですね。私は大遠忌法要で、『親鸞聖人御消息』の一部を拝読しましたが、そこにあるお言葉で「浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふべし」と言えるのは、受け取ってくれる人がいるという確信でもあるように思います。
 そして、伝える者の自覚ということで言えば、50年後はどうなるのか、同じように立派にお勤めできるだろうか、と考えるきっかけにもなります。み教えがちゃんと伝わるように、「今できることは何か」を考えるよいきっかけにもなるということです。漠然と将来というのでは掴みどころがありません。50年後というはっきりした数字があれば、若い人には是非がんばって欲しい、こんなことをして欲しいと言える。そうした区切りとして、毎年の報恩講とは異なる大きな意味があると考えています。
【 新門 】
これからの宗門のために何ができるかを考え、大遠忌のスローガンでもありました「世の中安穏なれ」を今一度味わい、お伝えいただいてきたことを確かに次代へ伝えていかねばならないと思います。

100年前のご本山での大遠忌法要

50年前の築地本願寺の大遠忌法要

これからの宗門に願うこと

――昨年4月から、法規改正によって宗門の体制は大きく変わりました。本山本願寺と浄土真宗本願寺派という宗派の機能が分離され、築地本願寺も別院ではなく直轄寺院になりました。この改革は何をもたらすとお考えでしょうか。

【 門主 】
私の立場から見て、改革の大事な点は、社会の変化に対応しやすい組織にすることです。 50年前頃までは、住職もご門徒も世襲で、同じところに代々住んでいることが当たり前でした。ですからその枠の中で考え、行動すればよかったのです。国家になぞらえるのは自然です。でも今はそういうわけにはいきません。あえてたとえるなら、政党のほうが近いと思います。親鸞聖人に賛同してくださる方を育て、増やさなければ、存在意義がなくなります。そこで、変化に対処する上で、主要なところである本山と築地本願寺を身軽にし、宗派の組織は、全体を統括し、調整する役割を担うことになりました。
 ですから、宗派は全国の僧侶・門信徒一人ひとりの希望や願いを集約して運営することは当然ですが、あわせて時代の変化に即応し、世界の情勢、社会の情勢を的確に捉え、内部で熟すことが必要です。今回の改革は、宗門外の知識や経験を取り入れるよう考慮されました。
 ただ1年くらいでそう簡単には変わりません。すぐに目に見えることは少ないですが、宗門関係者の考え方を変えていく大きなきっかけになってくれればと思います。改革の精神とか思想に大事な意味があるのです。

写真:ハワイ開教区御巡教の折、パシフィック・ブディスト・アカデミー高等学校を視察された御門主様、裏方様

【 新門 】
確かに、これまでの宗門は宗派が一体でしたから、教化でも既に包括関係のあるお寺、既にご門徒である方々が対象だったわけです。まだご門徒でない方に対する取り組み、働きかけがほとんどなされてこなかったのではないかと思います。そうした活動がやりやすくなればよいと考えます。
 京都にいるとわかりにくいのですが、築地本願寺から見ておりますと、首都圏から京都へ観光に行かれる方はたくさんいますが、本願寺へは行ったことがないという方が多いのです。首都圏の方には、拝観料が設定されている寺院は、お金を払うことで誰でも入ることができるが、そうではない本願寺は、ご門徒の方しか入ってはいけないのではないかと思われてしまうようです。これまでの本願寺は、既にご門徒である方を中心にした参拝施設でした。ですから、本願寺からご門徒でない方への働きかけは、あまりなされてこなかったのではないかと思います。
 これは、随分以前に聞いた話ですが、本願寺の境内に案内表示が少ないので、もっと付けたらどうかという意見が出た際に、本願寺にお参りされるのは、何度もいらっしゃるご門徒だから案内表示は必要ないという意見が通ったそうです。最近はこれほどではないでしょうが、まだまだ内向きな部分が残っているのではないでしょうか。
【 門主 】
 そうですね。本山や築地本願寺は、多くの方々にご縁をつなぐために変わっていかねばなりません。また、一つひとつのお寺も、人々の精神的な支えとなるような役割を果たすことを基本として、変化を恐れてはいけないと思います。法規改正にともなう様々な改革は、本山や築地本願寺、そして現場の一つひとつのお寺が、自ら考え、自ら変わっていかねばならないということを指し示していると思います。
 医療界でも最近は、かかりつけ医が重要だといわれていますが、各寺院はそれに近い役割を精神的な意味で担っていくのがよいと思います。医師もそれぞれ専門分野があるわけですが、地域医療の現場ではいろいろな病気の人が来る、それを拒んだりはしません。自分が不得意な分野だったり、設備が足りなかったりすれば、他の病院へ紹介状を書けばいいのですから。お寺の場合も、もし何か悩み事を持った方がいらっしゃった場合、親鸞聖人のみ教え、浄土真宗によって生きて欲しい、という根本的な願いをもって接する必要はありますが、最初から教義的な話ばかりしていては、入りにくいと思います。どんな方でも、精神的な課題にかかわる相談事、悩み事は「まずはお話ください」という姿勢が大事です。
 話を聞いているうちに、自然と解決の糸口が見つかる場合もあれば、病院へ行くのがよい方、弁護士事務所へ行くのがよい方といろいろあると思います。病院や弁護士事務所へ行くにしても、何か不安を抱えているわけですから、そこを聞いてあげることが大切です。
 お寺という形がある場合はもちろんですが、なくても、僧侶一人ひとりがそういう人と人とのつながりの中でみ教えを伝えていく、これは大変地道ですが、宗門全体の基本的な役割だと思います。
【 新門 】
 昔のお寺は地域社会の中でそのような役割を担っていたのではないでしょうか。しかし、社会の変化の中で現在ではそのような役割を担っているとは言えません。特に若い人の場合、明らかにお寺よりも占い師が身近な相談相手になっています。
 一方で、現在でも、僧侶や寺族、ご門徒の方で個人の立場でいろいろな社会に貢献されている方はおられます。しかし宗門という形では、多くの方が実感できるような貢献にはなっていませんでした。宗門では全国一律の基準を求めるため、個々の重要な活動を取り上げ、支えることが十分にはできていなかったと言えるのではないでしょうか。
 個人でできることもありますが、できないこともあります。例えば、宗門は先年、京都府城陽市に特別養護老人ホーム「ビハーラ本願寺」と「あそがビハーラクリニック」を建設し、「京都自死・自殺相談センター」と「NPO法人JIPPO」も設立しました。こうしたことは多くの方の力と、財的支援が必要で、個人では全てを担うことはできません。
 また、東日本大震災復興のため、築地本願寺でも本山とは別に、原発事故からご苦労の続く福島県を中心に、さまざまな支援活動を行っています。現場で何かせねばと考えた人々が最初に動き出したのですが、個人単位では継続していくことは難しいです。こうした復興事業を成し遂げようとする時、それぞれの現場の活動と、それを支える宗門という組織の連携が重要になります。
 世の中にはたくさんの団体があり、いろいろな活動をしていますが、それらは決められた目的があり、運営資金もそれにそって集めなければなりません。一方、宗門は救援活動を直接の目的とした団体ではありません。「自己中心性の否定」という浄土真宗のみ教えに基づいた理念を持った団体です。一般のボランティア団体とは、果たすべき役割が違います。
 これからの宗門では、本山、築地本願寺、各地の寺院など、いろいろな段階で、それぞれの現場の意志によって、お金の問題と切り離した活動ができるのではないかと思うのです。
【 門主 】
 個人では難しいことも、宗門ではいろいろな方が動き出し、お互いが支え合っていけばできるというのは大切なことです。
 さらにもう一つ、宗門の重要な役割を言うならば、理念的抽象的な事柄ですが、人類の課題というか、例えば「世界の平和」というような問題について、組織を代表して見解を表明することです。僧侶一人ひとりが、自分の考えを発表することも大事ですが、それだけではなかなか遠くまで伝わりません。宗門の中にもいろいろな意見があり、細かいところまでは一致しませんが、仏教の教理、浄土真宗のみ教えが世の中の問題を解決していく、大きな指針になることは間違いありません。そこで、ある程度基本的な考え方を集約して、宗門という組織を通して表明する、これが重要です。今までもやってきましたが、今後ますます必要になると思います。
 とにかく現代社会は、人間の欲望ばかりが肥大化し過ぎて、あるいは豊かな国の欲望が強すぎて、貧しい国から富を奪っていく傾向があります。そうした欲望、つまり煩悩に気付き反省する、仏教のそういう考え方を何とか伝える必要がある、と思っています。

写真:バチカン市国における「世界の正義と平和のための思念と対話と祈りの日」に臨席され、当時のローマ法王と握手される新門様

後編へ続きます

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