住職のつぶやき ~家族葬におもう~

 今号からホントにつぶやき程度の独り言を書き留めておこうと思いまして、ページを拝借させていただきます。いつまで続くか分かりませんがよろしくお願いします。

~家族葬におもう~

まずはじめに、家族葬が良いとか悪いとかってことを言うわけではありません。事例をもとに、少しだけ思うことを書きますね。
 ひじょうに増えました家族葬。家族葬専門の斎場、ホールも増えました。札幌では特に、南区、厚別区が高齢者が多く、目にすることが多いと思います。
なぜにそんなに利用者が多いのでしょう?

  1. 「わずらわしくない」
  2. 「家族だけで送れる」
  3. 「出費が少なくてすむ」

 このようなご意見が多いそうですが、私の着眼点は、二番目の「家族だけで送れる」です。
 亡くなった方の関わりって家族だけですかね?友人、会社の同僚、家族が知らない関係の方々、その他諸々・・・。
 私達はいろんなつながりの中で生かされているわけで、故人の最後を敢えて遮るようなことをなぜするのだろう?
遺言等があるならば別ですが、亡くなった方の関係を敢えて断ち切られるようで、いつももどかしい気持ちで一杯です。
 以前にも、お亡くなりになって臨終勤行(枕経)のあと、お打合せの際に、どう考えてもこの方(故人)なら会葬者は100人は越えるだろうという方なのに、「家族葬」で考えていますと遺族に言われたら、ちょっとこちらとしても何も言えないというか、アドバイスさえも出来ない。という状況がありました。
 他にも、家族葬でするなら、普通に葬儀を勤めたほうが良いでしょうとアドバイスしたにもかかわらず、家族葬で勤めてしまい、初七日から、「知らなかった。」、「どうしてお亡くなりになったの」と、毎日のように弔問のお客さんがご自宅を訪れ、とうとうそこの遺族さんはノイローゼとなってしまい、ほとんどの縁を切り、お寺とのご縁も切られてしまいました。
 また、経費が少なくて済むようなイメージであると思いますが、結局のところ、香典収入が見込めませんので、持ち出しが増えてしまったというケースもありました。
 ある先輩の僧侶から、こんな言葉をいただきました。「人間、生まれた時と、亡くなった時は、精一杯やってあげるべき。」と言う言葉です。この世の中に唯一平等があるとすれば、それは「人間は生まれたら必ず死んでゆかなければならない」ということでしょう。たとえ賢者だったとしても、愚者であっても、男でも女でも、生まれたからには必ず死んでゆかなければなりません。それを私達は分かっているようで分かっていない。まるで他人事のように思ってしまってはいませんか?
 その大切なことを、亡くなっていった方々は、ご自分の身を通し教えてくださっている。まさに仏様となってはじめてのおはたらきをして下さっている。その尊い仏縁を家族だけに限っていいのか?というのが私達、浄土真宗の立場であります。
 いろんなつながりに生かされ、様々な出遇いの中で大切なことを、縁のあった方々に亡くなられた人が伝えて来たかも知れない。その方の最後に、「ありがとう」を言えない場となっているのではないか?そんな風に思います。
 ただ、様々な事情もありましょう。いろんな思いもありましょう。それは良く分かっています。ですから、ちょっとでもお悩みなら、気軽に私達僧侶にご相談下さい。浄土真宗の立場をお伝えし、皆さんのお気持ちや考えを聞かせていただき、故人の肉体として最後のご縁を一緒にお勤めしませんか?
 こんなことを頭の片隅で考えていました。
 一回目から文字ばっかりでスミマセン。次号で書けるかどうか分かりませんが、つぶやいていきますのでよろしくお願いします。

この記事が掲載されている寺報やすらぎ