私にとっての親鸞聖人-映画「おくりびと」を通して-

作家 青木新門 あおき・しんもん
1937年富山県生まれ。早稲田大学中退。富山市内で飲食店経営の後、冠婚葬祭会社(現オークス・グループ)に入社。葬儀の現場で納棺専従社員として働いていた経験を『納棺夫日記』として出版。「納棺夫」は著者の造語。

 映画「おくりびと」が日本の映画賞を総なめにし、米国アカデミー賞まで受賞してしまいました。
 この映画が評判になるにつれ「なぜ原作者名が記されてないのか」とよく聞かれました。『納棺夫日記』を読んでいた人からは原作ではないかと問われたりもしました。私はそのたびにあいまいな返事をしてやり過ごして来ましたが、それは映画「おくりびと」が私の目指すところと似て非なる作品となっていたからでした。とかく真実は、真っ向から反対されるものによって消されることはありませんが、似て非なるものによって消し去られてしまうものです。
 映画「おくりびと」は、今日の既存宗教やその葬送の在り方には拒絶反応を示しながらも、愛別離苦の悲しみを如何にして癒すかという構図になっていました。即ち近代ヨーロッパ思想の人間愛で貫かれ、いかにも現代社会をクローズアップしたような作品になっていたのでした。人は宗教を見失ったとき、癒しを求めるものです。そんな現代人の心情に見事にフィットしたのが「千の風」であり「おくりびと」であったと思います。
 私は著作権を放棄してでも一線を画すべきだと決意しました。なぜなら私は親鸞聖人のみ教えに導かれて『納棺夫日記』を書いたのであって、そのテーマである宗教を完全に削除されたのでは承服するわけにはいかなかったのです。
 私の住む富山県内の葬式は、現在も80%以上が浄土真宗で行われています。お通夜などで蓮如上人の御文章「白骨章」がよく読誦されます。その中に「後生の一大事」というお言葉があります。
 また別の御文章に「それ、八方の法蔵をしるといふとも、後世をしらざる人を愚者とす。たとひ一文不知の尼入道なりといふとも、後世をしるを智者とすといへり」とあります。
 現代の著名な作家や知識人が生前「死んだら何もないよ」と後生を否定する発言をしていながら、実際死に直面すると哀れなほどにうろたえている姿を見るたびに、この蓮如上人のご文を思い出します。今日のほとんどの人は今生を一大事と思っていて、後生を一大事などと思ってもいないのです。
 私が後生を一大事と実感するようになったのは、納棺の現場で死者たちが見せた安らかな美しい死顔でした。そしてそれは遺された者たちへの後生の一大事を伝えるメッセージであると気付かされたことでした。そのメッセージこそが如来大悲の回向であると気付かされたのも親鸞聖人のみ教えに導かれてのことでした。虚無のどん底にいた私が安心の心で生きていけるようになったのも親鸞聖人に出遇ったからでした。もし親鸞聖人に出遇っていなかったら、私の人生は無明の闇に覆われていたことでしょう。そんな私の人生を一瞬のうちに美しい人生へと導いてくださったのが親鸞聖人でした。だから私にとっての師主知識、それは親鸞聖人をおいて他にないのです。

如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
親鸞聖人の恩徳も
骨をくだきても謝すべし
(本願寺新報8月号より抜粋)