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「先祖の霊を慰めていました」?…お墓に参る

お彼岸やお盆の時期になると、これまでひっそりとしていた墓地に参拝者がどっと訪れ、あちこちで手を合わせる光景が見られます。「彼岸」や「お盆」という仏教行事を通してではありますが、さめた現代人でもさすがに故人を忍び、ご先祖に感謝する心だけは失っていないようです。

ところで、こうした墓参光景が例年ニュースで報道されますが、その紹介の仕方が決まったように「(墓前で)先祖の霊を慰めていました」となります。

関西では大谷本廟の墓地がよくテレビに映るのですが「はたして大谷にお参りの真宗門徒も、手を合わせて先祖の霊を慰めているのか」と疑問に思ったり、つい不安になったりしてしまいます。故人の好きだったお酒や食べ物などを供え、故人の“霊”に手を合わせて慰めることがお墓参りだと思っているとしたら、それは少し筋が違います。

はっきり行って、お墓に先祖の霊が宿っているのではありません。固定的実態的な霊をそこに見ようとするのは、他ならぬ私自身の執着心がなせるわざで、実際には故人はお墓の中に眠っているわけではなく、また遺骨が故人なのではなく、すでにお浄土へ還られています。そして、お浄土から私たちに向け、如来様の真実を知らせんが為に働いてくださっているのです。

それでは、お墓は何のためにあるのでしょうか。お墓は、先祖あるいは故人が必要とするからあるのではなく、私たちが先祖、故人を敬い讃えたいと思うから建てるのです、さらに言えば、かけがえのない命を私に伝えてくださったご先祖に感謝しつつ「その命を精一杯輝かせて生きてくれ」という私へのご先祖の願いを聞く場でもあります。
また、遺骨を前にして諸行無常を味わうのもお墓でしょう。

諸行無常の理をかみしめ、先祖の願いを聞きながら正司を超えて確かな拠り所となるお念仏の教えを味わう場―それがお墓ではないでしょうか。

ポイント
◎お墓の中に故人はいない。
◎お墓は先祖のために建てるのではなく、私のために建てる。
◎先祖の願い聞き仏法味わう場。

(仏事のイロハより抜粋)