読みもの

姓の違う故人の納骨は…? 遺骨を仏縁に

ある女性が涙ながらに、こんな相談を持ちかけてきました。

「先方のご両親の反対を押し切って結婚した娘が先日亡くなり、葬式をすませたのですが、遺骨は婚家のお墓に入れてもらえず、かといって、我が家のお墓にも“姓の違う故人の遺骨は入れてはいけない”と人に言われて途方にくれています。どうしたらよいのでしょうか」と。

これを伺って「親の心痛いかばかりか」と思うと同時に、執らわれるべきでないことに執らわれ、自らを縛りつけて苦悩を深めている親の姿に、改めて迷信のこわさを感じました。

「姓の違う故人の遺骨は入れてはいけない」のほかにも「勘当した息子の骨は入れられない」とか「仲の悪かった人同士の骨を一緒にするとケンカになる」などと、まるで“骨のなわばり争い”のようなことを気にする人がいますが、そういうことは宗教上、一切気にする必要はありません。ですから、故人を大事に思う心があれば、堂々と自家のお墓に納骨すればよいのです。

遺骨に対する偏見は、骨そのものを故人と見るところから生じてきます。しかも、その“骨”の故人は、生前の自己中心的な欲望や感情、それにしきたりなどに縛られたままの故人なのです。

実は、そういう目でしか故人を見れない私自身こそ問題なのです。私の尺度で死後の世界を捉えようとし、挙げ句の果て、不幸が重なれば先祖のせいにしかねない私です。

しかし、故人は何も骨のままでじっとしているわけではありません。お浄土で仏さまとなり、私たちのためにはたらいておられます。たとえ生前対立していた故人同士でも、“倶会一処(くえいっしょ)”のお浄土のこと、世俗のわだかまりから解放されて、ともに手を取り合いお念仏の法を説いてくださっているのです。

“骨のなわばり”を気にするのではなく、故人の遺骨をご縁として、私自身が根源的ないのちの願い、真実の法を聞くことです。

ポイント
◎姓の違う故人でも納骨できる。
◎遺骨=故人ではない。
◎生前の故人の感情をそのままお墓に持ち込まない。

(仏事のイロハより抜粋)

読みもの

「先祖の霊を慰めていました」?…お墓に参る

お彼岸やお盆の時期になると、これまでひっそりとしていた墓地に参拝者がどっと訪れ、あちこちで手を合わせる光景が見られます。「彼岸」や「お盆」という仏教行事を通してではありますが、さめた現代人でもさすがに故人を忍び、ご先祖に感謝する心だけは失っていないようです。

ところで、こうした墓参光景が例年ニュースで報道されますが、その紹介の仕方が決まったように「(墓前で)先祖の霊を慰めていました」となります。

関西では大谷本廟の墓地がよくテレビに映るのですが「はたして大谷にお参りの真宗門徒も、手を合わせて先祖の霊を慰めているのか」と疑問に思ったり、つい不安になったりしてしまいます。故人の好きだったお酒や食べ物などを供え、故人の“霊”に手を合わせて慰めることがお墓参りだと思っているとしたら、それは少し筋が違います。

はっきり行って、お墓に先祖の霊が宿っているのではありません。固定的実態的な霊をそこに見ようとするのは、他ならぬ私自身の執着心がなせるわざで、実際には故人はお墓の中に眠っているわけではなく、また遺骨が故人なのではなく、すでにお浄土へ還られています。そして、お浄土から私たちに向け、如来様の真実を知らせんが為に働いてくださっているのです。

それでは、お墓は何のためにあるのでしょうか。お墓は、先祖あるいは故人が必要とするからあるのではなく、私たちが先祖、故人を敬い讃えたいと思うから建てるのです、さらに言えば、かけがえのない命を私に伝えてくださったご先祖に感謝しつつ「その命を精一杯輝かせて生きてくれ」という私へのご先祖の願いを聞く場でもあります。
また、遺骨を前にして諸行無常を味わうのもお墓でしょう。

諸行無常の理をかみしめ、先祖の願いを聞きながら正司を超えて確かな拠り所となるお念仏の教えを味わう場―それがお墓ではないでしょうか。

ポイント
◎お墓の中に故人はいない。
◎お墓は先祖のために建てるのではなく、私のために建てる。
◎先祖の願い聞き仏法味わう場。

(仏事のイロハより抜粋)