法務員 打本 真実
月忌法要とは、毎月のご命日のお詣りのことです。地域によって違いはありますが、北海道の多くのお寺は、御門徒のご自宅へ伺う、命日詣りを大切にされているのではないかと思います
。 私も毎日、御門徒のご自宅へ月忌詣りで伺っています。その御門徒の方々の中には何十年も月忌法要を欠かさずにされている方、近年ご家族の方が亡くなられて月忌法要をされている方など様々であります。中には葬儀が終わったらお盆と祥月命日(亡くなった日)だけという方やお盆だけという方、法事だけという方もおられます。理由は色々ですが、手を合わせお詣りをするということが非常に少なくなっていることに、なにか心の寂しさのようなものを感じます。
そもそも月忌法要は誰のためにしているのでしょうか。亡くなった方、先祖の方々のためでしょうか。それとも受験を控えている子供や遅くまで残業をして疲れきって帰ってくるお父さんのためでしょうか。たしかに、亡き人を思いながらお詣りすることもあれば、家族のことを思いながらお詣りをすることもあるでしょう。しかし、お詣りをしているのは「私」であり、お経やお寺さんのお話を聞くのも「私」であります。そう考えるとお詣りをするということは、「私自身」のためということに気付かされるのではないでしょうか。ご命日の日に少しの時間でも心を落ち着け、お仏壇の前で手を合わせ、亡き人を偲びながら人間の命を問うていく、恵まれた命をどのように生きていくかということを考えていくことが、お詣りをする意義であります。
先日、月忌詣りで伺った御門徒のおばあちゃんが私にこんな質問をされました。「月命日のお詣りは何のためにしているのか。お寺さんの話しや本を読んでも何かはっきりとした答えがない」ということをおっしゃっていました。わたしはこの時、「自分はまだまだ何も伝えられていないな」ということを強く思いました。このおばあちゃんは、自分のためのお詣りとは聞かされているが、どうしても亡くなった人を供養するためにお詣りをしている自分がいるということに悩んでおられました。なぜ月命日のお詣りをするのか、私なりに色々お話をさせて頂いたのですが、うまく伝えることが出来ず、ハッキリとした返答をしてあげられませんでした。
しかしこのおばあちゃんとお話しているうちに、「供養のためのお詣り」が「私自身のためのお詣り」に通ずるものがあるのだということを感じました。亡くなられた方をいつまでも想い、その想いからお詣りをするということは決して間違ったことではなく、そういった想いを通して「命のつながり」や「自分の人生」を見つめ、振り返っていくことが大切なことなのです。このような想いは最近の世の中には残念ながら見られなくなってしまっているように思います。激しく移り変わっていく時代に生きている私たちは、何を生活のよりどころにしているのでしょうか。忙しい社会に対応しながら心身共に労せずには生きられない日々に、何を心のささえとしているのでしょう。誰もが平等にあたえられる「命の充実感」という目には見えない財宝をもっているのでしょうか。
私たちは必ず何かをよりどころにしながら生きています。お金であったり、仕事であったり、人であったり、それぞれ違います。しかし今よりどころにしているものが、真のよりどころに価するのかということを考えなければなりません。殺伐とした現代社会において、手を合わせること、命日のお詣りをすることは古くさい陰気な感じを持たれる方も多いかもしれません。しかし先祖の方々に手を合わせることが少なくなってしまった今、それが世の中の凶悪な事件などを生み出してしまうことにも繋っているのではないかと思えてなりません。
こういう時代だからこそ、もう一度古き時代にもどり、お仏壇の前で手を合わせ、お仏壇がない人はお寺の本堂で手を合わせ、人生を見つめ、社会を見つめていく必要があるのではないでしょうか。命日のお詣りや手を合わせることは日本古来の風習でありますから、お詣りをすることによって不思議なことに心が和んだり、落ち着いたりする方も多いようです。なぜお詣りをすると心が落ち着くのか、これを考えることで誰のためにお詣りをするのか、何のためにお詣りをするのか、また「真のよりどころ」とは何かということも自然と見えてくるかもしれません。
わたし自身も「真のよりどころ」というものを今一度、きびしく検討しながら生きて行きたいと思うことであります。
合 掌