参拝者は”招待客”ではない ……… 法事に参画を

 法事は、主催者である施主とその家族が中心となって準備をし、営まれるわけですが、同時に案内を受けて参拝した人たちも法事を営む”一員”であることを心得て頂きたいものです。
 なぜこんなことを言うかといえば、「法事はもっぱら施主が勤め、我々はそこに招待された者だ」という意識が、参拝者の中にあるように思えるからです。すなわち、施主が招待する側で、参拝者は招待された”客”というふうに、対照的に捉えがちなのです。
 しかし、法事の趣旨からいうと、それは問題です。法事は故人に縁ある人たちが参集して、僧侶を招き、ともに仏法を聞き味わうところに意義があります。ですから、施主も、参拝した人も同じ立場にあるわけで、法事に集まったすべての人が”法事を営む一員”だということです。
 もっとも、具体的に形に表れる準備や進行は、施主やその家族が行うことになりますので、参拝者は側面から協力することになります。
 例えば、親の年忌法要であれば、子である施主の兄弟で費用を分担してもよいでしょうし、参拝者全員に配る”お供養”の品を負担し合ったりしてもよいでしょう。
 ところで、「粗供養」とか「○回忌志」と表書きされる”お供養”ですが、これは単なる引き出物ではありません。ご仏前にお供えし、如来さまからの”お下がり”としていただきたいものです。
 参拝者が、当日お供えするものとしては一般的に金封の「御仏前」や菓子果物といった供物類があります。「御仏前」が施主への “お礼” でないことはいうまでもありません。報謝の心から如来さまにお供えするものであり、供物類も同様です。
また、地域によっては「添布施」というのがあり、これは僧侶への施主のお布施に、他の参拝者が添えるお布施のことです。

法事
いずれにしても、参拝者も積極的に法事に参画して下さい。
ポイント
  1. 施主と参拝者が法事を営む。
  2. 参拝者は側面から協力する。
(本願寺出版社 仏事のイロハより抜粋)

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