ふじおかゆうやのガバイはなし vol.06 「正しさとは」

安楽寺法務員 藤岡融也

 みなさんこんにちは、時がたつのは早いもので気づけば年末です。雪が降るのは遅いと言っても段々と寒くなってきました。
 新型コロナウイルス感染症の混乱がようやく落ち着きを取り戻したようにみえますが、まだまだ油断は禁物です。引き続き感染対策を講じていきましょう。
 さて、このコロナ禍の二年間で様々なことが変わりました。密を避ける、マスク着用は当たり前、店に入れば検温や消毒、食べ物は個包装など私たちの生活は一変しました。ここで少し感じたことがあります。なぜこのような対策をしているのでしょうか?その答えは皆さんが知っているように簡単です。それが身を守るための「正しい」行動と思われるているからです。では「正しさ」とは何でしょうか?コロナ禍に限った話ではありませんが、特に今の時代「正しさ」がずっと求められています。
 例えば、コロナウイルスのワクチン。当初は未知のワクチンだから接種しない方が正しいとネットやテレビでよく見かけましたが、今となっては早く接種するべきとよく聞きます。さらに、コロナウイルスの拡大当初、次亜塩素酸が効果的という情報が流れ、こぞって次亜塩素酸を求めました。それを空中に噴霧するなどしていましたが、今では明確に空中噴霧は意味がないと言われています。これらに限らずコロナウイルスにはこれが効く、効かない、様々な「正しさ」が飛び交いました。
 もう一つたとえ話をすると少し前に衆議院選挙がありました。候補者はもちろん自分が間違っているとは思ってはいません。自分の「正しさ」を社会に実践するために立候補しているのです。「正しさ」と「正しさ」で争っているわけです。しかし結果はどうでしょう。当選した人もいれば、落選した人もいる、正しいと思っていても世間には間違っていると思われたのです。
 本来「正しさ」とは一つのはず、つまりどちらかは間違っているはずですが、誰しも自分が間違っているとは思っていません。しかし昨日までの正しさが次の日には間違いになるというのが私たちの日常です。正しいと思っていても実際は間違っていたということは珍しくありません。
 そこで僕がいつも思い出す言葉があります。それは「善悪のふたつ、総じてもて存知せざるなり」という『歎異抄』の中の親鸞聖人の言葉です。現代語に直すと「何が善で、何が悪かは全く知らない」と訳せます。この言葉は一見すると、善も悪も私には何もわかりませんといった投げやりな言葉に見えます。しかしながら、自分が善と思っていることは本当に善なのか?悪なのか?という言葉にも見えますし、自らに問いけている言葉として受け取ると、あなたが善と考えていることは相手にとっては善ではないかもしれない、という言葉にも見えます。
 僕にとって「善悪のふたつ総じてもて存知せざるなり」という言葉は善悪の判断はわからないという意味ではなく、自分の行為にブレーキをかけてくれる、そしてもう一度その行為について考えさせてくれる言葉です。誤解してほしくないのは、その行為が正しいかわからないから何もするな、言っているのではありません。善悪の基準の判断は難しいですが、これが絶対に正しいと思ってすることと、正しいかどうかわからないが、迷いながらも、考えながらすることでは大きく意味が違ってくると思います。今の時代、たまには立ち止まってもう一度ゆっくりと考えることが必要ではないでしょうか。
 最後になりますが、立ち止まることが悪いことではないと思います。ちなみに僕は三歩進んで二歩下がるどころか一歩も進まず五、六歩下がっているがよくあります。それでも自分で考えたことなので受け入れています。みなさんもどうか一度立ち止まり自分を見つめなおしてみませんか?それではよいお年を! 合掌

この記事が掲載されている寺報やすらぎ