生後まもなく亡くなった赤ちゃんをお墓に納めるというので、お参りに行きました。
墓地は最近求めたようで、まだ石碑は建っていませんでしたが、右端のところにお地蔵さんが建てられています。「あぁ、これが水子地蔵だな」と思いながら、どうして地蔵尊を建てたのかを聞くと「水子の場合はお地蔵さんが救って下さるそうなんです。だから地蔵尊を建てて、その下に赤ちゃんの骨を納めようと思います。もちろん、大人が死んだら中央に石碑を建てるつもりですが…」とのこと。
これでは “水子は地蔵尊に” “大人は阿弥陀如来に” と、まるで救いに “分業” があるかのようです。しかし大切なことは、救われなければならないのは他ならぬ “私自身” であると気づくことでしょう。赤ちゃんを亡くして悲しみにくれる私をしっかりと抱きとめ、人生を真実に向かわしめて下さる方に出遇うことが大切なのです。
阿弥陀如来は正しくそうした方です。「苦悩する一切の生きとし生ける者を信心一つで必ず救いとる」と誓われた如来さま。そのご本願を “私のために” と味わい信じて生きぬくのが真宗門徒だと言えましょう。
ここからは「地蔵尊を建てて礼拝しよう」という発想はわいてこないはずです。また、そうすることは阿弥陀様のお救いを疑うことにもなってきます。
「だが、赤ちゃん自身はどうなるんだ」と心配する人があるかもしれません。その人は “赤ちゃんのために” 水子地蔵やお墓を建てるものと思っているのでしょう。
しかし、如来さまのご本願を仰いでいくと、その亡き赤ちゃんが実は “私のために” 人間に生まれることの有り難さ、いのちの尊さを知らしめ「この大切な人生を確かな依り所をもって歩むように」と教えて下さった仏さまであったと味わえてくるのです。
どうか、水子地蔵を建てて大人の骨と区別するのではなく、いのちの尊さをかみしめながら如来さまのご本願を仰いでお念仏申して下さい。
(本願寺出版社 仏事のイロハより抜粋)