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分骨は“身を裂く”行為なのか…? 仏縁を増す

これもあるご婦人の相談です。
「主人が亡くなり、その遺骨をご両親の要望もあり、故郷のお墓に納めることになりました。しかし、何分にも遠いところで、なかなかお参りに行けそうもありません。また息子もこちらで働いているので、将来のことも考えて、こちらでもお墓を建てようかと思っています。ところが“分骨はいけない”ということを聞きます。どうすればよいでしょうか」
こんな内容でした。
「分骨はいけない」と思っている人が確かにいるようです。聞くところによると、分骨することによって故人の“身が裂かれ”てバラバラになり、故人が迷ってしまうというのです。
これは遺骨そのものを故人と見てしまうとらわれの結果です。くどいようですが、故人は“骨”ではなく、限定して捉えることのできない存在になっているのです。そうした故人の遺徳を偲ぶ縁として遺骨があるわけです。
遺骨を前にして、縁ある人々が少しでも多く故人の遺徳を偲び、如来様の広大なお慈悲に遇うことができれば、むしろ慶ばしいことと言わねばなりません。ですから「分骨がいけない」理由はどこにもないのです。
お釈迦様のご遺骨(仏舎利)のことを考えれば、なお一層はっきりしてきます。
すなわち、荼毘にふされたご遺骨は、お釈迦様を敬い慕う各国の人々によって八つに分骨され、それぞれの国に持ち帰って仏舎利塔が建立されます。そこからまた、さらに分骨されて数多くの仏舎利塔が建てられるようになったのです。
それだけお釈迦様のご遺徳を偲び、そのみ教えを信じ慶ぶ人びとが多かったということであり、また、そういう自ずと湧き出てくるお釈迦様への尊敬の念が、仏舎利塔すなわちお墓を建てしめたのです。
こうしたお墓の原点を考えれば「分骨はいけない」という発想はわいてこないのではないでしょうか。

ポイント
◎分骨が“身を裂く”ように思う心が問題。
◎分骨によって仏縁が増えればむしろ慶ばしい。

(仏事のイロハより抜粋)