数年前にご主人を亡くされたある女性が、ふとこんな胸の内を明かしてくれました。
 「私も年をとり、時どき死んでからのことを考えるんです。お墓には主人と先妻さんがすでに入っていますので、私が死んでも、せっかく仲良くしている所へ行くのはなんだか邪魔しに行くようで、気が進みません。それで別にお墓を建ててもらおうかとも思ったりして…」
と、こうです。
 また、ある新聞のアンケート調査によると「姑(しゅうとめ)さんと一緒のお墓に入るのはいやだ」と答えた主婦もいたとか。
これでは、お墓は俗世の感情がそのままぶつかり合う所のようです。しかも、死後、あんな狭いところにおおぜいの人?がそれぞれの思いを抱きながら閉じこもっているとすれば、たまったものではありません。
 しかし、安心してください。お念仏の信心をいただいておればお墓の中に“拘束(こうそく)”されることなく、広大なお浄土へ生まれさせていただけます。そのお浄土はまた「倶会一処(くえいっしょ)」の世界であり、一人ひとりが仏として互いに敬い合い、心を通わせる世界です。男とか女とかの区別もなく、いのちそのものが躍動し合う世界なのです。
 心の隅ずみまで通じ合える関係なのですから、気兼ねやわだかまり、不信、不満が生じる余地はありません。先妻とか後妻とか、嫁姑といったこだわりもないということです。手に手を取り合い、こだわり続ける私たち凡夫に向かって阿弥陀如来の真実(まこと)の救いを説いて下さるのです。
 ですから、気兼ねしたり、片意地を張ったりせず、私自身が仏法を聞いて信心をいただき、お浄土に生まれさせていただく身になることが肝要でしょう。
 また「お墓はこのようにしてほしい」とか、自分の後のことをあまり子や孫に押しつけると、あるいは子ども達が困ることにもなりかねません。それよりも今、子や孫にしなければならないのは、身をもって仏法を伝えることでしょう。

ポイント
◎お墓で会うのではなく、お浄土で出会う。
◎気兼ね無用なのがお浄土。

(本願寺出版社 仏事のイロハより抜粋)