教え tell me – vol.1 はじめまして!

暉峻康紀(てるおか やすのり)

この度5月1日より安楽寺様の法務員としてお手伝いをさせて頂くことになりました暉峻康紀(てるおか やすのり)、と申します。鹿児島県のお寺の三男坊として生まれ、地元の高校を卒業後、京都の龍谷大学、中央仏教学院、勤式指導所と勉強させて頂き、現在33歳です。2002年11月に開教使として渡米、約4年間をコロラド州のデンバー仏教会の開教使として常駐し、その後1年間ロサンゼルス別院で勤務し、2007年12月に帰国。帰国してからの1年間は伝道院と勤式研究生として西本願寺で過ごさせて頂きました。趣味はビリヤードと沖縄三線、子供のころの習い事は、剣道6年、バスケ3年、卓球8年、これをみると私自身まったく意識はしていないのに、なんだか色々やってきているなぁと感慨深くなってきます。

さて、今回は『往生(おうじょう)』という言葉について私が考えるところを述べたいと思います。これは、日本ではかなりポピュラーな用語で、使い方を簡単に説明しますと、
例)うちのおじいちゃんが昨晩遅くに、病院で往生(亡くなる)した。つまり英語では『 die, pass away 』としての意味。
もうひとつ、例)バスは大雪のため路上に立ち往生していた。つまり英語で近い意味では『 give up, be stranded in deep snow』としての意味。
そして最後に、私たち浄土真宗が使う『 birth, birth in Amida’s Pure Land 』があります。けれど正直に申しますと、私は、この翻訳によって往生という言葉の真意が伝わるのは、仏教を勉強したごく一部の人に限られてしまう恐れがあるのではないだろうか?といった不安を感じてしまいます。そこで、今回はもうひとつの考え方を紹介したいと思います。その言葉は『往生とは希望をもって生きることだ』という曽我量深先生のお言葉です。

みなさんこれを聞いて今どういう気持ちになられましたか?あるひとは、それはちょっと違うんじゃないか?と思ったり、またある人は本当にそのとおりだ、とも思ったりすることでしょう。私がこの言葉に出遇ったとき、私は往生という言葉を、今まで肉体を失う、お浄土に生まれ往く、という意味でしか理解しなかったことに気づかされました。子供の頃、嫌なことがあってどうしようもない時、いつも私を見てくれている誰かがいるんじゃないかな、と感じていました。それが仏様なのかもしれないと感じるようになったのも最近なのかもしれません。私が頑固に生きよう、負けない強い人間になろうとしているとき、私はそれを感じることはできません。逆に、私はなんて弱くて駄目なやつなんだと、自分の虚しさに気づくとき、何かが私を包んでいてくれるような気持ちにさせられます。目に見えないものに包まれていると、私がどんな人間なのかよくわかります。楽しいことも辛いことも色々ありますが、それは全部、縁があって導かれていることなのだな、と思うようにもなりました。みなさん冷静に考えてみてください。私が仏さまを信じるというのではありません。仏さまに信じられている、ということが、この’往生とは希望を持って生きる’という言葉の意味の原点なのです。私はまだまだ若い経験不足な僧侶なので、今回のこの言葉の意味がみなさんにどう影響を与えるかはわかりませんが、とりあえず今の私が伝えたいこと、それは往生とは私たちの生活外にある考え方ではない、だからこそ希望という言葉に感動して欲しかった、ということです。

合 掌

特技の沖縄三線