ある女性が涙ながらに、こんな相談を持ちかけてきました。
「先方のご両親の反対を押し切って結婚した娘が先日亡くなり、葬式をすませたのですが、遺骨は婚家のお墓に入れてもらえず、かといって、我が家のお墓にも“姓の違う故人の遺骨は入れてはいけない”と人に言われて途方にくれています。どうしたらよいのでしょうか」と。
これを伺って「親の心痛いかばかりか」と思うと同時に、執らわれるべきでないことに執らわれ、自らを縛りつけて苦悩を深めている親の姿に、改めて迷信のこわさを感じました。
「姓の違う故人の遺骨は入れてはいけない」のほかにも「勘当した息子の骨は入れられない」とか「仲の悪かった人同士の骨を一緒にするとケンカになる」などと、まるで“骨のなわばり争い”のようなことを気にする人がいますが、そういうことは宗教上、一切気にする必要はありません。ですから、故人を大事に思う心があれば、堂々と自家のお墓に納骨すればよいのです。
遺骨に対する偏見は、骨そのものを故人と見るところから生じてきます。しかも、その“骨”の故人は、生前の自己中心的な欲望や感情、それにしきたりなどに縛られたままの故人なのです。
実は、そういう目でしか故人を見れない私自身こそ問題なのです。私の尺度で死後の世界を捉えようとし、挙げ句の果て、不幸が重なれば先祖のせいにしかねない私です。
しかし、故人は何も骨のままでじっとしているわけではありません。お浄土で仏さまとなり、私たちのためにはたらいておられます。たとえ生前対立していた故人同士でも、“倶会一処(くえいっしょ)”のお浄土のこと、世俗のわだかまりから解放されて、ともに手を取り合いお念仏の法を説いてくださっているのです。
“骨のなわばり”を気にするのではなく、故人の遺骨をご縁として、私自身が根源的ないのちの願い、真実の法を聞くことです。
(本願寺出版社 仏事のイロハより抜粋)