「やすらぎ」47号発刊にあたり


 慈光照護の下、門信徒の皆様におかれましてはご清祥にてお過ごしのこと大慶に存じ上げます。又、日頃より当寺護寺発展の為に並々ならぬご尽力を頂いておりますこと、重ねて御礼申し上げます。
 寺報「やすらぎ」第47号を門信徒の皆様のお手元へお送りさせて頂きました。今年の夏からの出来事を中心に、この度も写真を多く掲載し、この半年を振り替えられるように致しました。どうぞご高覧下さい。
 さて、皆様も中にも注目をして発表を楽しみにしていらっしゃる方がおられると思いますが、今年の世相を表す漢字、毎年12月12日に京都の清水寺で発表されます。今年は「 令 」という字になりましたね。
 新元号の「令和」や「法令改正」による消費増税、災害による「警報発令」などの象徴する一字として最多の得票数を集めたそうであります。 
 少し安易な感じも致しましたが、1995年に始まり、令和になって初めてとなる今年の漢字。この度で25回を数えるそうであります。
 私、個人的には、「 和 」という字が選ばれるのではないかと考えておりましたが、「 和 」は得票数は2番目だったそうです。なぜ、「 和 」かというと、今年の流行語大賞に選ばれたのは、ラグビーワールドカップで、日本チームのスローガンであった「ONE TEAM」でありました。学生時代、ラグビーに励んだ私自身は、今年はまさにラグビー一色の一年だったからであります。
 流行語大賞に選ばれた「ONE TEAM」、政治学者の姜尚中(サン・カンジュン)さんはこうコメントしておりました。【明暗がくっきりと際立った一年だった。想定外の自然災害の連続や閉塞感、イジメや政治の淀みなど、たとえて言えば、「白々しい闇」が広がり、弾けるような流行語・新語が見出し難い一年だったように思う。その闇を払ってくれたのは、なんと言ってもラグビーの、思ってもみなかった(選手には失礼!)大活躍と国民的な熱狂だった。 この明がなかったら、 今年は不作の年だったに違いない。ラグビー、さまさまの一年だった。】と語られておりました。本当にラグビーワールドカップで日本チームのあの活躍がなかったら今年は、明るいニュースが何一つない、益々閉塞感に包まれた一年ではなかったかと思います。
 健康社会学者の河合 薫さんもある雑誌のコラムで、現日本ラグビーフットボール協会副会長の清宮克幸氏(早大ラグビー部出身)をインタビューされたときの模様を紹介しております。
 【数々の金字塔を打ち立ててきた清宮氏だが、そのきっかけは早稲田からサントリーに入り、キャプテン失格になったことだと話してくれた。
 清宮氏はサントリーに入社後、「こんな練習をやっていたら日本一なんかなれない。俺にキャプテンをやらせろ!」と25歳のときにキャプテンに就任する。
 ところが出る試合出る試合負けばかり。27歳までキャプテンをやり続けたが一度も勝てなかった。で、キャプテンをやめた翌年、全国社会人ラグビーでサントリーは優勝する。「やっと俺が間違っていた、俺に足りないものがあったと受け入れられました。結局、『俺が俺が』ってとにかく独りよがりだった。なんでも自分でできると過信していたんです。チームは組織。組織が機能するチームにしないとダメ。自分でできることは限界があることに気づいたんです」(清宮氏)。
 どんなにリーダーが優秀でも、リーダーシップを発揮するにはフォロワーであるメンバーたちの力が不可欠。チームにはチームワークを発揮させる仕組みが必要であり、チームの力はリーダーの価値観がクモの巣のようにチームに張り巡らされ、クモの巣から誰一人として漏れない組織がつくられて発揮できる。】
 どんなに能力があろうとも、周囲と「いい関係」がない限り、その能力が生かされることはない。
 人から信頼されている、愛されている、見守られている、認められていると認識できたとき初めて、人は安心して目の前の難題に全力で取り組むことができる。自らの行動に責任を持ち、自分の力を極限まで引き出す胆力が育まれる。ラグビー日本代表はそんな人の本質を教えてくれたのだ。
と語られていました。
 また、かの松下幸之助さんの言葉も同時に紹介されておりました。【和の精神とは、人と対立することを避けて、表面的に仲良くやっていくという意味での和ではありません。私たちが考える和の精神とは、まず皆が自由に正直に話し合い、お互いの意見や価値観に違いがあることを認め、その違いを尊重したうえで、共通の目標のために協力し合うという、相違や対立の存在を前提とする和なのです」と説いたが、これも真のチーム力の言葉ではないか。】
 ラグビーはそもそもイギリスという国で生まれたスポーツですが、実際にプレーをしてきた私自身が沢山経験させていただいた中で、きわめて仏教の教えに近い、或いは浄土真宗の教えに近いスポーツだということを常々感じておりました。
 それは、にわかと言われたファン層でも、これくらいは知っていることです。それは、ラグビーというスポーツはボールを前にいる人にパスが出来ないスポーツです。前にパスをするとスロウフォワードという反則になることは、皆さんもこの度のワールドカップで憶えたと思います。決して前にパスをすることが出来ない、ボールを持っている人の後ろに回って、パスを受ける。すなわちその人のフォローをするわけです。そのフォローを何人ものプレイヤーがボールを守り続けて、繋いで繋いでトライをするというゲームです。
 そこには「揺るぐことのない信頼」というものがなければ決して成立することが出来ない、物事を成就することは出来ないわけであります。
 本願寺第25世専如門主は2016年の伝灯奉告法要の際に「念仏者の生き方」をお示しになられております。その中で、「私たちはこの命を終える瞬間まで、我欲に執(とら)われた煩悩具足(ぼんのうぐそく)の愚かな存在であり、仏さまのような執われのない完全に清らかな行いはできません。しかし、それでも仏法を依りどころとして生きていくことで、私たちは他者の喜びを自らの喜びとし、他者の苦しみを自らの苦しみとするなど、少しでも仏さまのお心にかなう生き方を目指し、精一杯(せいいっぱい)努力させていただく人間になるのです。」と大変平易なお言葉で、私達のすすむべき生き方をお示し下さいました。
 先に述べた、「揺るぐことない信頼」は「仏法(仏様の教え)」、そして、「何人ものプレイヤーがボールを守り続けて、繋いで繋いで」は「他者の喜びを自らの喜びとし、他者の苦しみを自らの苦しみとする」と置き換えて考えてみると、極めてラグビーと仏教の教えというものは、通じるところがあるのだなあといただいております。
 ラグビー通じて皆様も、感動や気付きがあったと思います。そして私が申し上げた共通点を踏まえて考えていただいたときに、あらためて、ご門主様がお示しして下さった念仏者としての生き方、すなわち「仏さまのような執われのない完全に清らかな行いはできませんが、・。・・少しでも仏さまのお心にかなう生き方を目指し、精一杯(せいいっぱい)努力させていただく人間になるのです。 」とのお示しをしっかりといただいて、この一年を振り返りながら、来る年、新たな念仏生活のスタートを共々にきり、この一度きりの人生、大切に大切に歩んでいきましょう。
 日本人の心の奥底には、仏教伝来から仏様の教えが根付いていると私は信じています。それは、お彼岸やお盆の時期になるとテレビのニュースから流れてくる光景が証してくれています。ですから、この度のラグビーワールドカップ、日本で開催され、大成功を収めたのは、日本という国は伝統的に仏教国、仏教の教えが根付いてるからこそであったと、あらためてこの一年かを振り返って感じたことでありました。合 掌

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