死亡日から数えて七日目を初七日(しょなのか)、次の七日目を二七日(ふたなのか)、以後三七日(みなのか)…というように、七日ごとに務める法要を中陰法要と言い、最後の七七日(四十九日)は満中陰(中陰が満つる)として、特に丁重にお勤めするならわしになっています。
もっとも、地域によって命日の前日(逮夜・たいや)から七日ごとに勤めるところもあり、日取りについてはお寺におたずねください。
こうして勤める中陰法要は、けっして追善の、また冥福を祈るためのものではありません。肉親の死を目の当たりにした悲しみの中から、個人の遺徳を偲ぶとともに、これを縁として“私”の人生の確かな拠り所となってくださるお念仏の教えを聞き、阿弥陀如来様への報謝の念を深めるための仏事です。
言いかえると、中陰法要の一回一回が“私”にとっての貴重な仏縁であるわけです。心して法要に臨んでいただきたいものです。ご住職の法話には特に耳を傾けていただきたいものです。
ところが、この中陰に関して「四十九日が三ヶ月にわたるといけない」という迷信が広くゆきわたっており、三ヶ月にわたる前に満中陰を済ませる方が増えてきています。
たとえば五七日(いつなのか・三十五日)に満中陰法要をしたり、場合によっては三十五日以前の日曜日に早々と済ませたりします。考えてみれば、月の後半に亡くなると四十九日目が三ヶ月にわたるのは当然で、むしろ三ヶ月にわたることの方が多いくらいです。
どうして「四十九日が三ヶ月にわたるといけない」と思うのかと言えば「始終苦(しじゅうく・四十九)が身につく(みにつく・三月・みつき)」からだというのです。語呂合わせの迷信そのものでしょう。
そういう語呂合わせを気にして日を変えるようでは、何のための法要かわからなくなってしまいます。決められた中陰の日でないと絶対にだめだとはもうしませんが、迷信によって日を変更したり、振り回されたりはしないでください。せっかくの仏縁です。大切にしましょう。